映画にはかならず配給と封切りという商業的なサイクルが存在している。
つまり、映画とは、何よりもまず「商売」として成立している。
ボックスオフィスと言われる有料入場者数が、映画作品の価値として認知される理由もそこにある。
だが、ぼくらは、ボックスオフィスとは別の価値観で映画を見る習慣をいつの間にか身につけてしまった。
自主上映、ミニシアターといった欄が情報誌を賑わした時代と、その習慣は軌を一にしているだろう。
当時ぼくらは、信じられないほど多様で、想像を絶する豊かさを備えた映画の力に驚いていた。
しかし、恵比寿ガーデンシネマやシネセゾン渋谷など、ミニシアターの中心だった上映館が相次いで閉館し、シネコンばかりが増していく現在、多様な世界の窓だった映画の可能性が小さくなっていくように感じられる。
内向きになっていくいまの状況が、そのまま、ここにも反映されているのだろうか。
多様なはずだった、豊穣なはずだった映画のすべてが、ボックスオフィスの一語に収斂されてしまうのだろうか?
自主上映やミニシアターの中心にいらした方々から、お話を伺い、多様性と豊穣さの担保になっていた作品をともに見ることで、映画をめぐる状況の未来を思考してみたい。
つまり、映画とは、何よりもまず「商売」として成立している。
ボックスオフィスと言われる有料入場者数が、映画作品の価値として認知される理由もそこにある。
だが、ぼくらは、ボックスオフィスとは別の価値観で映画を見る習慣をいつの間にか身につけてしまった。
自主上映、ミニシアターといった欄が情報誌を賑わした時代と、その習慣は軌を一にしているだろう。
当時ぼくらは、信じられないほど多様で、想像を絶する豊かさを備えた映画の力に驚いていた。
しかし、恵比寿ガーデンシネマやシネセゾン渋谷など、ミニシアターの中心だった上映館が相次いで閉館し、シネコンばかりが増していく現在、多様な世界の窓だった映画の可能性が小さくなっていくように感じられる。
内向きになっていくいまの状況が、そのまま、ここにも反映されているのだろうか。
多様なはずだった、豊穣なはずだった映画のすべてが、ボックスオフィスの一語に収斂されてしまうのだろうか?
自主上映やミニシアターの中心にいらした方々から、お話を伺い、多様性と豊穣さの担保になっていた作品をともに見ることで、映画をめぐる状況の未来を思考してみたい。
梅本洋一

